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北東北の旅 津軽地方の旅

豪華な弘前公園の桜(改築前の写真)

弘前公園には日本一とも云えるほどの規模の桜の木が植えられている。弘前城の天守、櫓、門、濠、橋などお城の遺跡と対比した桜は素晴らしいの一言である。

弘前公園は弘前城の跡を公園にしたもので、現在も天守閣や櫓、門、濠、橋などが随所に残っている。公園の面積は東京ドームの10倍強。この広大な公園の随所に京都や吉野などから移植、育てられてきた50品種、2600本の桜の木が植えられている。どれも見事な桜の木で、見ごたえがある。

 交通の便

弘前駅から公園まで頻繁に直通バスが運行されているが、津軽フリーパスで無料で乗れるのは100円の循環バスなど路線が限定されており、多少は不便である。循環バスの乗り市役所前で降りた。ここは公園の追手門の近くで観光の中心地である。

外濠の桜

弘前公園の周りは外濠で囲まれているが、それに沿って立派な桜並木が続く。角館は枝垂れ桜が主で華麗な桜が覆いが、弘前公園の桜は巨木で豪快である。弘前に着いた日は雪で、桜が咲く中を雪が舞うという珍しい風景を見ることができた。

弘前城壕の桜
弘前城壕の桜

濠の両岸には見事な桜が植えられている。

弘前城濠の両側の桜
弘前城濠の両側の桜

次の日は曇りで桜見物も多少はよくなった。

津軽藩ねぶた村付近

公園内にも幾つかの写真の撮影ポイントがある、津軽藩ねぶた村の前の濠のところが、一つのポイントとなっており、天気が良ければ岩木山が濠に映って見えるとのこと。当日は曇り空で岩木山はあいにく雲の中、残念であった。

津軽藩ねぶた村の前の濠
津軽藩ねぶた村の前の濠

弘前城北門と桜

弘前城は江戸時代の初期に築城されてから260年間津軽藩の居城として藩政の中心となっていた。弘前城には文化財の門が5つ残っている。写真は亀甲橋と文化財の北門。建設さてた当初はこの北門が表門であった。武家屋敷の町並みはこの場所から直ぐである。桜の写真もアクセントがあると絵になる。

弘前城の北門と桜
弘前城の北門と桜

弘前城の櫓と桜

公園内にも立派な桜の木が多い。文化財の櫓をバックに撮った。弘前公園にはこのような文化財の櫓が三つ残っている。

弘前城の櫓と桜
弘前城の櫓と桜

修復以前の弘前城天守閣と桜

この風景は今後永遠に見ることが出来なくなつた。石垣が壊れる危険があるとのことで、天守閣が移動されることになつた。石垣と天守閣と周りには撮影ポイントが多くあつたが、残念。

もとは別に華麗な5層の天守閣があったが、落雷で焼失してしまった。再建しようとしたが当時の法律で天守閣の新築が禁止されていたので、やむなく隅櫓を改築して今の3層の天守閣にした。それでも、江戸時代に再建された天守閣としては東北唯一のものとのこと。

弘前城天守閣と石垣
弘前城天守閣と石垣
弘前城天守閣と桜
弘前城天守閣と桜

天守閣のある本丸は有料になっている。本丸には枝垂れ桜が多い。

弘前城の本丸公園の桜
弘前城の本丸公園の桜

堀と橋と桜

公園内に幾つかの橋があるが、濠にかかるこの橋が絵になるのである。

内堀に架かる橋と桜
内堀に架かる橋と桜

帰る頃になってようやく晴れてきた。

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久保田藩の城下町ー秋田市

秋田市は久保田藩20万石の城下町として栄えた都市である。市内の中心部にある千秋公園には昔久保田城があったが、火事で消失し、現在は桜の名所となっている。秋田市は秋田県の県庁所在地であり観光施設も多い。

久保田城

秋田の地には奈良時代から平安時代にかけて城柵(出羽柵)が建設されていた。その後、城柵は秋田城と言われるようになった。この秋田城の跡は近くの高清水公園に残っている。この地を支配していた佐竹氏は当初、秋田城を拠点としていたが、手狭になり、1604年に久保田藩初代藩主の佐竹義宣が現在の千秋公園の地に窪田城を建設した。後に久保田城と改名している。戦国時代の佐竹氏は周辺大名と姻戚関係を結び、伊達氏や北条氏と拮抗する勢力を持っていた。藩は明治時代まで残った。城は明治13年の大火で建造物はほぼ焼失してしまった。その後、平成元年に市制100周年を記念して御隅櫓が復元。平成13年に絵図や資料を基に久保田城表門が再建されている。

木造2階建て瓦葺きの櫓門はこの素晴らしく、千秋公園の中では一番絵になる 。

久保田城の櫓門
久保田城の櫓門

復元された御隅櫓。内部は資料館となっている。

千秋公園の桜

秋田市の第一の観光地は千秋公園のようだ。千秋公園は旧久保田城一帯を公園として整備されたものでである。山城であったのか、公園全体が岡になっいる。公園に残る城跡の遺構と桜の対比がよいのか千秋公園は桜100選 にも選ばれている桜の名所である。残念ながら訪れた時は桜はすでに満開を過ぎ散り始めていた。それでも、多くの人が訪れていた。

千秋公園の内堀の桜。堀とのコントラストで比較的絵になる。

千秋公園の内堀の桜
千秋公園の内堀の桜

本丸辺りの桜。

久保田城本丸辺りの桜
久保田城本丸辺りの桜

高いところからは雪を頂いた山が見える。

千秋公園の高台
千秋公園の高台

旧金子家住宅

江戸後期の建築様式を残した旧金子家住宅。秋田市の代表的な町家であり、秋田市指定文化財となっている。

旧金子家住宅
旧金子家住宅

秋田市民俗芸能伝承館(ねぶり流し館)

秋田市民俗芸能伝承館では竿燈、土崎港まつり、梵天などの秋田の民俗行事や伝統芸能が紹介されている。竿燈が飾ってあった。これを一人で持って演技するのは大変である。

秋田市民俗芸能伝承館の竿燈
秋田市民俗芸能伝承館の竿燈

秋田市立赤れんが郷土館(旧秋田銀行本店)

秋田にある観光資料に載っている唯一の近代建築の建物で重要文化財に指定されている。外部を当時の秋田県技師山口直昭、内部を工学博士星野男三郎が設計し、明治45年7月に完成している。煉瓦造の2階建て、外観はルネッサンス様式を基調とし、基壇は灰色の男鹿石の切り積み、1階が磁器白タイル、2階が赤煉瓦で仕上げている。明治時代末期の本格的な煉瓦造洋風建築として貴重。現在は「秋田市立赤れんが郷土館」として秋田市の伝統工芸品が常設展示されている。

旧秋田銀行本店
旧秋田銀行本店

秋田は海が近いので魚が美味い。名物はやはり「切りたんぽ鍋」であろうか。

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盛岡城と南部藩

盛岡城は清和源氏の流れを汲み、岩手県北上市から青森県下北半島を一帯を領有していた外様大名南部藩の本拠地である。南部氏は平安末期に東北に根を降ろしてから明治の初めまで生き残った珍しい一族で、他には島津しかいない。

南部藩の起源

南部氏は武田と同じ清和源氏の分家の流れを汲む一族であり、功績により現在の山梨県南部町を拝領した。この時から地名と同じ南部姓を名乗るようになった。
平安時代末期に源頼朝が奥州藤原氏討伐に乗り出したとき、南部三郎光行も参加、その功績により糠部五郡(現在の青森県から岩手県)を拝領した。しかし、実質的に支配した時期は定かでない。
青森県三戸郡南部町は南部三郎光行が上陸し、宿をとったことから、町の名前が付いたとされる。山梨県南部町は南部氏発祥の町として、青森県南部町は南部藩発祥の地として、現在でも交流があるとのこと。

室町時代まで

鎌倉時代、南北朝時代、室町時代と時の権力者の移り変わりにより南部氏も変遷はあるが、最初に根拠地としたのが、八戸城(根城)で、その後、三戸を根拠とする「三戸南部氏」と「八戸根城南部氏」に分かれている。また、津軽への防衛措置として、七戸にも城を築いている。

戦国時代

戦国時代に豊臣秀吉が全国統一に乗り出し小田原城を攻めたとき、三戸南部の南部信直は参陣している。南部信直は宇都宮で秀吉との謁見を許され、所領安堵の朱印状を与えられている。その後、八戸南部の九戸政実が反乱(九戸政実の乱)を起こすが、豊臣秀吉に鎮圧されている。この結果、八戸南部は三戸南部の管理下に置かれ家臣との位置付けになった。

盛岡城の築城

九戸政実の乱後、所領の改変が行なわれ、三戸南部の所領から津軽、比内が取り上げられ、代替地として小田城攻めに不参加の藩の領地、和賀郡、稗貫郡の2郡が加増された。所領が南部に広がつたことにより、従来の本拠地では北により過ぎて統治には不便なことから現在の不来方(盛岡)に本拠地を置くことを勧められた。南部信直が朝鮮出兵のため名護屋に滞陣中に、秀吉の許可を得て、不来方城(盛岡城)築城が開始された。しかし、不来方城と城下の町並の整備が一応完成したのは1608年南部利直の時代になってからことである。その後も本丸が消失したりして、城や町の整備は続いた。盛岡城を本拠としたことにより、南部藩は、盛岡を本拠とした南部藩(盛岡藩)、八戸城に藩庁を置いた八戸南部藩、七戸城に藩庁を置いた盛岡藩の支藩、盛岡新田藩となった。

盛岡城は現在の盛岡市中心部にある現在の岩手公園の地の花崗岩丘陵に築城された連郭式平山城である。建造物は明治初頭に解体された。現在は岩手公園として整備され宮沢賢治の詩碑や石川啄木の歌碑などがある。現在でも立派な石垣が殆ど残っており、城址としての雰囲気は十分である。

岩手公園の地図

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