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日本最大の規模を誇る京都鉄道博物館

梅小路蒸気機関車館に展示されていた20両の蒸気機関車に大阪にあった交通科学博物館の展示物の一部も加え全体で53両の車両が展示されている。車両以外にも鉄道ジオラマや運転シミュレータなどがあり、総合的に楽しめる博物館となっている。

京都鉄道博物館の住所と行き方

住  所:京都市下京区観喜寺町
電話番号:0570-080-462

梅小路京都西駅から徒歩2分。

鉄道博物館の横に嵯峨野線の梅小路京都西駅が新設され、アクセスが格段に向上した。京都駅から徒歩でも20分程度の距離にある。七條通を西に歩いて行けば梅小路公園に辿り着く。公園の西の端に博物館はある。

プロムナード

入口を入るとC62形26号機、クハ86形1号車、0系新幹線21号形1号車の車両が展示されている。

0系新幹線

21ー1、 16-1 (グリーン車) 、35-1(食堂車 )、22-1の4つの車両連結して展示されている。35-1以外は昭和39年3月に製造され鴨宮モデル線で試験走行を行っていたときの車体である。 開業してからは世界最速の時速200キロ以上での営業運転を実現した。 まさしく新幹線の最初の車体である。 日本機械学会から機械遺産に認定されている。

0系新幹線
0系新幹線

C62形26号機。 日本最大の旅客用蒸気機関車。東海道本線や山陽本線で活躍した。

C62形26号機
C62形26号機

トワイライトプラザ

中庭の部分には寝台車などの旅客用の列車が展示されている。先頭は電気機関車、後方には食堂車などが連結されている。

EF58形150号機。 戦後を代表する旅客用の直流電気機関車。

EF58-150
EF58-150

EF81形103号機。関西から青森までの直通運転を可能にした交直流電気機関車。

EF81103
EF81103

本館展示場

1階展示場

京都鉄道博物館本館1階
京都鉄道博物館本館1階

233(重要文化財)

逓信省鉄道作業局が汽車製造合資会社に発注し、明治36年度に竣工した1B1形タンク式蒸気機関車。安定した性能と保守の容易さから、明治42年までに51両が製造され、国産初の量産型機関車となった。国産の蒸気機関車として先鞭をつけた形式の車両として鉄道史、産業史上などに学術価値が高いとして、重要文化財に指定されている。

展示場の奥にはまだ車両基地としての機能も保持している。標識類も設置されており、営業線扱いの展示引き込み線から現役の車両を展示搬入することも可能である。

2階展示場

運転シミュレータ、鉄道ジオラマ。

京都鉄道博物館の鉄道シュミレータ
京都鉄道博物館の鉄道シュミレータ

転車台のある広場に通じている連絡通路がある。

3階スカイテラス

京都市内の南側がよく見える。京都鉄道博物館は梅小路車庫跡に建設されているので、京都駅から西側に発車する電車はすべて見ることができる。

3階屋上からの眺め
3階屋上からの眺め

扇型車庫(重要文化財)と転車台

梅小路機関車庫は大正3年11月に竣工した日本で現存する最古の鉄筋コンクリート造りの機関車庫である。大正,昭和期を代表する機関車庫として重要で価値が高く、国の重要文化財に指定されている。
ここでは昔の梅小路機関車庫がそのまま博物館として使用されており、扇形の車庫(扇形庫)と蒸気機関車の方向を変更する転車台などを見ることができる。扇形車庫の中には貴重な蒸気機関車が保存展示されている。

京都鉄道博物館の転車台と扇型車庫
京都鉄道博物館の転車台と扇型車庫
扇型車庫の蒸気機関車
扇型車庫の蒸気機関車

これを利用して一部の機関車はSLスチーム号として動態展示されており、観客を乗せて梅小路車庫内を運行している。

旧二条駅の駅舎の出口

博物館の出口に使用されている建物は旧二条駅の駅舎である。旧二条駅舎は、明治37年に建設された現存する日本最古の木造2階建の和風駅舎で、京都市の有形文化財にも指定されている。

旧二条駅駅舎
旧二条駅駅舎

保管されている蒸気機関車

京都梅小路蒸気機関車館時代に保管されていた代表的な蒸気機関車(SL)。現在も継続して保管展示されているが、写真の多くは昔撮ったものである。

1080

明治時代にイギリスから大量に導入され、大活躍した「ネルソン」系の蒸気機関車。現在、日本にはここ梅小路蒸気機関車館に1両しか残っていない。

ネルソン1080
ネルソン1080

8630

大正3年から日本で初めて本格的に量産された8620形の国産旅客列車牽引用のテンダー式蒸気機関車。8620形は貨物も牽引できる万能の機関車で、昭和4年までに672両量産されている。付番は8620−88651。梅小路の8630は製造開始年最初の大正3年に製造された型番である。

8630
8630

9633

大正2年から日本で初めて本格的に量産された9600形の国産貨物列車牽引用のテンダー式蒸気機関車。9600の型式は最初明治45年に試作された2−8−0(1D)型過熱式テンダー機関車に付番されたが、3ヶ月後に改められ、その後改良した本SLに付番されている。

9633
9633

B2010

昭和20年頃製造された構内輸送用の小型機関車。

B2010
B2010

C581

昭和13年頃から昭和22年頃までに427台製造されたC58型式の中型客貨兼用過熱式テンダー式蒸気機関車。

C581
C581

C59164

昭和16年から昭和22年の間に製造された完成度の高い大型の旅客用機関車。東海道本線の電化まで「つばめ」「かもめ」「さくら」などの特急列車を牽引して人気があった。

C59164
C59164

C612

C612はC61形の2号機関車。C61形は昭和22年から昭和24にかけて33両製造された大型の急行旅客用テンダー式蒸気機関車。戦後、旅客用機関車が不足してきたためD51形のボイラーを流用して製造された。付番はC611−C6133。梅小路蒸気機関車館ではC612は動態保存されており、体験列車「スチーム号」に使用されることもある。

C612
C612

C621

C621はC62形の1号機関車。C62形は昭和23年から昭和24年にかけて49両製造された日本最大最強の旅客用テンダー式蒸気機関車。D52形のボイラーを流用して製造された。付番はC621−C6249。

D51200
D51200

C622

C622はC62形の2号機関車。C622は除煙板につばめマークが付けら、「スワローエンゼル」という愛称で呼ばれていた。ただし、実際は「つばめ」を牽く機会は少なかった。

C622
C622

D511

D511はD51形蒸気機関車の1号機関車。D51形は昭和11年から昭和20年までの間に1115両も製造された大型の単式2気筒で過熱式のテンダー式貨物用蒸気機関。太平洋戦争中に大量生産されたこともあり、1型式で日本最大の製造量を誇る機関車で「デゴイチ」との愛称で親しまれた。付番はD511−D511161。

Umekouji0240

D51200

D51200はD51形蒸気機関車の200号機関車。動態保存され体験列車「スチーム号」に使用されることもある。

D51200
D51200

D52468

D52468はD52形蒸気機関車の最後の付番の468号機関車。D52形は昭和18年から昭和21年めでの間に285両製造された日本の蒸気機関車の中では最高の出力を持つ超大型のテンダー式貨物用蒸気機関車。付番はD521−D52468。

D52468
D52468

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変化に富んだ庭園を持つた城南宮

城南宮は京都の街を守護する京都五社の一つであるが、観光の目玉は変化に富んだ広い庭園と各種の行事である。庭園では四季折々の花を咲かせたり、曲水の宴など観光客が興味を持ちそうな行事を行っている。特に枝垂れ梅は見事であった。

城南宮の住所と行き方

住  所:京都市伏見区中島鳥羽離宮町7番地
電話番号:075-623-0846

地下鉄の竹田から徒歩20分程度
バス便 油小路城南宮バス停から4分(平日)
    城南宮前バス停から1分(土日休日)

京都らくなんエクスプレスのバスが京都駅の八条口から出ている。私の場合、よく調べす京都駅前から市バスで行こうとしたが、出たばかりであった。バスの本数が少なく次のバスは待つ時間が長かったので、地下鉄で竹田駅まで行き、そこからスマホにナビさせて歩いた。これが一番確実である。バスを利用する場合は予め時刻表で確かめておくことが必要と感じた。

城南宮について

城南宮は京都の南、伏見区にある神社である。創立時期は不明であるが、この地にあった真幡寸神社に、神功皇后の三韓征伐の際に船上に立てた旗に大国主神の神霊を添えて奉斎したのに始まりとされる。また、平安遷都の特に国常立尊が併祀された。この為、主祭神は神功皇后、大国主神、国常立尊となっている。

平安時代後期になると、城南宮を取り囲むように白河上皇や鳥羽上皇によって、 城南離宮(鳥羽離宮)が造営された。離宮は院政の拠点として政治や文化の中心となり、歌会、雅やかな宴会や船遊びが行われ、この地に王朝文化が花開いた。
城南宮は離宮の鎮守として一層崇められた。

京都五社めぐりと御朱印

風水の考え方に四神相応があるが、これは四方を玄武(北)、蒼龍(東)、朱雀(南)、白虎(西)が守護するというものである。これを神社に応用したものが京都五社巡りである。すなわち、京の都を北の玄武(上賀茂神社)、西の白虎(松尾大社)、 東の蒼龍(八坂神社)、南の朱雀(城南宮)。そして中央を平安神宮が守護するということで、この五社の御朱印を集めるのが流行っている。中央を守護する神社として何故平安神宮なのか不明。場所的にも歴史的にも下賀茂神社の方が適当と思うのだが。

城南宮の建造物

本 殿

本殿は平安時代後期の建築様式に則り昭和53年に造営されたものである。

城南宮本殿
城南宮本殿

拝殿と境内

境内の中央には拝殿がある。多くの人が見られるように神楽などの行事に使用されているようである。

城南宮拝殿と境内
城南宮拝殿と境内

城南宮の庭園:神苑

城南宮の見どころは本殿や拝殿を取り囲むように作られている神苑である。入口から春の山 、平安の庭 、室町の庭 、桃山の庭 、城南離宮の庭と趣きの異なった庭が配置されている。作庭は昭和の小堀遠州と讃えられている中根金作である。現在評判のよい足立美術館の庭園も中根金作が作庭したものである。

訪れた時は春の山の庭で150本のしだれ梅が咲き誇っていた。見事である。

城南宮の梅と花の絨毯
城南宮の梅と花の絨毯

春の山から平安の庭に行く道筋には30品種程度の椿が咲いていた。写真は落ち椿(城南椿)。

城南宮落ち椿
城南宮落ち椿

神楽殿の裏側には綺麗な梅が咲いていた。

城南宮神楽殿の梅
城南宮神楽殿の梅

次に平安の庭、その奥には苔の庭が広がっている。

苔の庭には細い川の流れが作られており、ここで曲水の宴が行われる。 これはこの流れにお酒の盃を流し、が自分の前を通り過ぎるまでに歌を披露するというもの。これに白拍子の舞などが披露される。観光客にとってはこちらの方が目的であろう。YouTubeでいろいろアップされているので紹介する。

参道を渡ると反対側には室町の庭 、桃山の庭 、城南離宮の庭と続いている。

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悲劇の皇后が余生を送った尼寺の寂光院

源平の壇之浦の戦いで敗れ、入水自殺を図った建礼門院徳子が助けられ、晩年を過ごしたゆかりの寺。寺は小さくて質素で、華麗な観光地ではないが、諸行無常の雰囲気を味わうには返ってふさわしいのかもしれない。写真は以前撮影したものも交じっている。

寂光院の住所と行き方

住  所:京都市左京区大原草生町676
電話番号:075-744-3341

大原バス停から徒歩15分程度

寂光院は京都の市街地から遠く離れ、昔は隠棲の地として知られた大原の里にある。建礼門院が静かに余生を送った場所でもあり、ひなびた里との印象があるが、現在は観光地として人気が高くなり、その印象は薄れつつある。

大原までは京都駅から京都バスで約1時間。このバスは三条京阪までは繁華街を通るので、四条通りなど主要な繁華街からも乗ることができる。三条京阪からは鴨川沿いを、出町柳からは高瀬川沿いを走る。この道は若狭街道といわれた重要な道路で、京都から若狭湾の小浜まで通じている。昔この道を通り若狭湾の海産物が都に運ばれたので、鯖街道とも言われている。
地下鉄の終点国際会館駅からもバスの便はある。このルートで行くのが時間が読めて一番便利である。 国際会館駅から大原まではバスで22分である。

寂光院について

寂光院は天台宗の尼寺である。山号は清香山。寺号は玉泉寺。本尊は地蔵菩薩である。開基は聖徳太子で、用明天皇の菩提を弔うために建立されたと伝えられている。

寂光院の初代の住持は聖徳太子の御乳人であった玉照姫で、敏達13年に出家され、日本仏教最初の三比丘尼の一人とされる慧善比丘尼である。以後、代々高貴な家柄の女性が住職を務めらている。記録は失われている。

時代は飛ぶが第2代目の住職と位置付けているのは宮中で建礼門院徳子に仕えた藤原信西の息女の阿波内侍である。この女性は柴売りで有名な「 大原女」のモデルとされている。

建礼門院徳子と大原御幸

三代目の住職は建礼門院徳子である。平清盛の娘の建礼門院徳子は高倉天皇の皇后となり、安徳天皇を生むなど平家一族は栄華を極めた。しかし、源氏との戦になり、最後は壇ノ浦で滅亡した。このとき建礼門院は8歳の安徳天皇と共に入水自殺を図った 。源氏方に安徳天皇を助けるようにと指示がでていたようであるが、助け出されのは建礼門院だけであった。

その後、建礼門院は大原の里の寂光院で尼となり、平家一門と高倉・安徳両帝の菩提を弔い余生をひっそりと送られた。

文治2年には、後白河法皇が建礼門をご訪問されている。このエピソードは謡曲の大原御幸として知られている。

寂光院で侘しい生活を送っていた建礼門院徳子のもとに法皇がお忍びで訪問される。ここで徳子は栄華を極めたことから自殺のことまで仏教の六道(天上、人間(善道)・修羅、畜生、飢餓、地獄(悪道))をすべて体験したこととわが子である安徳天皇の最後を涙ながらに話され、寂れた草庵から静かに法皇を見送られた。

寂光院の建物について

寂光院は大原の山すそに建っ小さな尼寺である。豪華さはなく建礼門院徳子を偲びながら訪れる寺である。

寂光院への素朴な入口の階段。

寂光院入口
寂光院入口

山 門

階段の上には山門がある。建礼門院のエピソードを偲ばせる枯れた雰囲気のある門である。

寂光院正門
寂光院正門

本 堂

山門の中は狭い境内があり本堂が建っている。残念ながら平成の時代に火事にあい再建されたものである。少し枯れて趣きが出てきた。

本堂内に上がり、再建された本尊の六万体地蔵菩薩立像を近くから見ることができる。火災にあった以前の本尊も修理され収蔵庫で保管されている。

寂光院本堂
寂光院本堂

願いの鐘

誰でも自由に衝けるとのことである。以前の説明では諸行無常の鐘と平家物語に因んだ名称であったと記憶しているが、変えられたようである。

諸行無常の鐘楼
諸行無常の鐘楼

四方正面の池

本堂の右側に広がっている回遊式の庭園。

四方正面の池
四方正面の池

茶室(孤雲)に入る門

寂光院とあまり関係ないようであるが、気に入った。

寂光院茶室の門
寂光院茶室の門

茶室(孤雲)と前に庭

一番雰囲気のある建物である。

寂光院茶室
寂光院茶室

建礼門院徳子の草庵があった場所

メインンの境内から少し離れた場所にある。

建礼門院住居跡
建礼門院住居跡

建礼門院徳子大原西陵

寂光院の少し手前に長い階段があり、その上にある。建礼門院徳子は今も静かにこの場所で眠っている。宮内庁管轄である。

建礼門院徳子大原西陵
建礼門院徳子大原西陵

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写真素材の多い大原三千院

三千院(さんぜんいん)は京都の奥座敷大原の里にある天台宗の門跡寺院である。大きな寺院ではないが、苔に覆われた庭と往生極楽院、石仏や花など写真の被写体になる場所は多い。

三千院の住所と行き方

住  所:京都市左京区大原来迎院町540
電  話:075−744−2531

大原バス停 徒歩 10分

三千院は京都の市街地から遠く離れた大原の里にある。周囲は奥深い山里で,昔は隠棲の地として知られたところである。ひなびた里との印象があるが、現在は観光地として人気が高くなり、その印象は薄れつつある。

大原までは京都駅から京都バスで約1時間。このバスは三条京阪までは繁華街を通るので、四条通りなど主要な繁華街からも乗ることができる。三条京阪からは鴨川沿いを、出町柳からは高瀬川沿いを走る。この道は若狭街道といわれた重要な道路で、京都から若狭湾の小浜まで通じている。昔この道を通り若狭湾の海産物が都に運ばれたので、鯖街道とも言われている。
地下鉄の終点国際会館駅からもバスの便はある。このルートで行くのが時間が読めて一番便利である。 国際会館駅から大原まではバスで22分である。

大原には三千院と寂光院の二つの観光地がある。二つはバス停を挟んで東西の異なった山すそにあるため、両方を観光する場合は30分程度歩かなければならない。

三千院はバス停から10分程度歩かなければならない。参道は川沿いの狭い道で風情がある。門前に着くと城郭のような石垣がめぐらされ、大寺院である雰囲気が漂ってくる。

三千院の門前
三千院の門前

三千院について

三千院は天台宗の寺院で山号は魚山。本尊は薬師如来、開基は最澄である。最澄は空海とともに日本の仏教の礎となる平安仏教を築いた高僧であり、寺として品格を感じる。

お寺の場所は最澄が草庵を結んだ比叡山から始まった。その後、近江坂本、そして京都市内を幾度か移転しいる。それに伴い寺の名前も円融房、梨本坊、梨本門跡、梶井宮と変わっている。平安後期以降からは皇子皇族が住職を務める門跡寺院となっている。

明治の初め大原の里に移転してからは現在の名前の三千院に改めている。また、境内に往生極楽院を移築し阿弥陀堂としている。その後も金色不動堂や観音堂が整備さて現在に至っている。

三千院の御殿門
三千院の御殿門

正門である御殿門。梶井門跡三千院と往生極楽院の二つの表札が掲げら、重要な二つに寺院があることを示している。

三千院の聚碧園

三千院には二つに庭園があるが、客殿から見えるのが聚碧園である。

聚碧園
聚碧園

宸 殿

三千院の本殿に当たる場所である。中には本尊である薬師瑠璃光如来が祀られているが秘仏となっている。現在は工事中である。写真は以前に撮影したものである。工事の前は宸殿から有清園に降りていたが、今回は出口から入っている。

三千院宸殿
三千院宸殿

往生極楽院について

三千院の観光の目玉である往生極楽院は,平安時代の後期久安4年に高松中納言実衡の妻である真如房尼が夫の菩提を弔うために建立したお堂で本来は三千院と無関係である。明治時代になり三千院が大原に移転してから境内に取り込まれた形になっている。 

内部には国宝の阿弥陀三尊像(阿弥陀如来と両脇に侍像)が安置されている。この仏像は堂内に入り間近で鑑賞することができる。

芝と往生極楽院
芝と往生極楽院

往生極楽院の南側にある朱雀門。極楽院を本堂としていた頃は正門である。

三千院の朱雀門
三千院の朱雀門

有清園とわらべ地蔵

宸殿の前に広がっているのは有清園である。池泉回遊式庭園とのことであるが苔が印象に残る。苔むした境内の片隅に小さな石仏が置かれている。苔むしてきて格好の写真の被写体になっている。下の写真はトリミングしたものであるが、精巧な写真を取る場合は望遠レンズが必要である。

有清園
有清園
わらべ地蔵
わらべ地蔵

金色不動堂と観音堂


有清園のわらべ地蔵がある辺りから上に登る道がある。往生極楽院より一段高い場所に金色不動堂、更に高い場所に観音堂がある。 いずれも平成に建てられた新しいお堂でまだ風格が備わっていない。

鎌倉石仏とおさな六地蔵 


金色不動堂より上にも境内が広がっている。その一画の少し下ったところに鎌倉石仏とおさな六地蔵が安置されている。どの石仏もなかなか趣きのがある。

三千院の近くには來迎院や勝林院など幾つかに観光地がある。

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浄土宗の最初の寺院である金戒光明寺(くろ谷)

金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は法然が最初に布教の拠点とした場所で現在は浄土宗の大本山となっている。また、幕末には会津藩が本陣を構え千名の藩士が常駐していた寺院である。よく知られた観光地ではないが新撰組とも関係が深く、真如堂も近いので紅葉のシーズンにお薦めである。

金戒光明寺の住所と行き方

住  所:京都市左京区黒谷町121
電話番号:075−771−2204

市バス 岡崎道下車 徒歩10分

京都の主要なターミナル駅から岡崎道を通る市バスがでている。平安神宮からも20分程度歩けば行ける。

黒谷さんの入口

バス道路から一路北に入った通りなので分かり難い。通りの突き当りが金戒光明寺(くろ谷)である。
京都守護職本陣 の表札もかかっている。

金戒光明寺について

金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、浄土宗の大本山で、山号は紫雲山、本尊は阿弥陀如来である。市民からはくろ谷さんと呼ぶれ親しまれている。

知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の七大本山の一つであり、また京都四箇本山(他に知恩院、知恩寺、清浄華院)の一つである。初めは念仏道場として利用されていた。境内には皇族・公家の茶の湯に使われた黒谷明星水という名水がある。

山 門

江戸時代の万延元年に完成した建物である。坂の途中に建てられているので威圧感がある。
山門の正面に後小松天皇から賜った「浄土真宗最初門」の勅額が掲げてある。

御影堂

火災により昭和19年に再建された建物。法然の肖像が飾られている。

黒谷さん御影堂
黒谷さん御影堂

三重の塔

高台にある墓地の側に建てられている。あまり大きくはないが下から見上げると立派である。岡の上からは京都市内が展望できる。

金戒光明寺の歴史

金戒光明寺の創立については次のように伝えられている。法然は15歳で比叡山に登り18歳のとき比叡山西塔近くの黒谷で慈眼房叡空のもとで修行していた。黒谷は比叡山の中でも別所と言われ、俗世と関わりを断ち切る隠遁の地として知られているところで、法然も名利を求めず遁世して仏道修行に励んでいた。

法然が45歳(鎌倉時代の承安5年)のとき比叡山の黒谷に降りて、岡を歩くと、大きな石があり、法然はそこに腰掛けた。すると、その石から紫の雲が立ち上り、大空を覆い、西の空には、金色の光が放たれた。そこで法然は、うたたねをすると夢の中で紫雲がたなびき、下半身がまるで仏のように金色に輝く善導が表れ、対面した(二祖対面)。善導は中国浄土教の僧で「称名念仏」を中心とする浄土思想を確立した僧である。これにより、法然はますます浄土宗開宗の意思を強固にした。こうして法然はこの岡崎の地に草庵を結び、新黒田と呼んだ。このように金戒光明寺は浄土宗の最初の寺院となった。

法然は兄弟弟子の信空に比叡山黒谷の本房とこの岡崎の地の白川の本房を与えた。信空はこの地に住み、白川門徒の拠点となった。その後は岡崎の地を新黒谷とは呼ばず、黒谷と呼ぶようになった。
第5世恵顗の時に堂を整え、法然の見た縁起にちなみ紫雲山光明寺と号した。

第8世運空は後光厳天皇に戒を授けて、金戒の二字を賜ったので、それ以降、金戒光明寺と呼ぶようになった。 法然が最初に浄土宗の布教を行った地であることに因み、後小松天皇から「浄土真宗最初門」の勅額を賜った。

会津藩の本陣

小高い岡になっている黒谷は自然の要塞になっている。徳川家康は何かある時には軍隊が配置できるように黒谷と知恩院を城構えとしていた。

幕末に会津藩主松平容保が京都守護職に任命されたとき、 会津藩は御所や三条大橋などに近く、大小52の宿坊があり1000名の藩士が駐屯でき、城郭構造になっている金戒光明寺(くろ谷)を本陣とした。藩兵1,000人が京都に常駐し1年おきに交替した。

しかし、会津藩士のみでは手が回りきらなかったため、守護職御預かりとして新選組をその支配下に置き、治安の維持に当たらせた。 新選組もたびたび訪れている。

慶応3年の大政奉還によって、薩摩藩・長州藩が京都市中の支配権を確立したため、京都守護職は設置後6年をもって廃止された。

黒谷さんの会津藩の墓地

黒谷さんの高台には墓地があるが、この墓地に鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士の墓がある。

また、春日局や八橋検校の墓もある。

紅葉について

最近は金戒光明寺も紅葉の名所として、PRしているようであるが、やはり紅葉は隣の真如堂の方が素晴らしい。真如堂とくろ谷は入口は離れているが同じ岡の上にあるので、墓所の中を通って簡単に行くことができる。

真如堂の紅葉
真如堂の紅葉
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建仁寺(京都最古の禅寺)

祇園花街の近くに京都五山の第三位に位置する臨済宗建仁寺派の大本山建仁寺がある。この寺は国宝の俵屋宗達の風神雷神図屏風や重要文化財の海北友松一派の障壁画を多く所有しており、その複製を見ることができる。大きな寺院であるが、街中にあることから少し趣に欠けるような気のもする。祇園に近いことから、祇園甲部の花街を見た後、立ち寄るのもよいのではないだろうか。

建仁寺付近の住所

住  所:京都市東山区大和大路四条下ル小松町584
電話番号:075-561-6363

四条通りからお茶屋一力亭のところを花見小路通りに曲がり祇園の歌舞練場を通り過ぎ、行き止まりのとこある。繁華街の近くであり、建仁寺の四方方向にバスが走っている道路があり、どこからでも歩いて行くことができる。主な駅からの所要時間

  • 京阪電車「祇園四条駅」より 徒歩 7分
  • 市バス「東山安井」より 徒歩5分
  • 市バス「南座前」より 徒歩7分
  • 市バス「清水道」より 徒歩10分

建仁寺について

建仁寺は臨済宗建仁寺派の大本山の寺院。山号は東山。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は源頼家、開山は栄西で京都で最も古い禅寺ある。京都五山の第3位。

建仁2年(1202年)、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の援助を得て、元号を寺号として、京都における臨済宗の拠点として建立されたのが建仁寺である。
創建当時の京都では真言、天台の既存宗派の勢力が強く、建仁寺は天台、真言、禅の3宗並立した寺院であった。それからから半世紀以上たった正元元年(1259年)に宋僧の蘭渓道隆が11世住職として入り、それから純粋に禅の寺院となっていった。

風神雷神図屏風(国宝)

風神雷神
風神雷神

建仁寺で一番注目すべきことは国宝の俵屋宗達の風神雷神図屏風を所有していることである。私の日本絵画の中で一番好きな絵である。後に尾形光琳がこの絵を見て感動し、模写した絵を描いている。

俵屋宗達の原画は京都国立博物館に寄託されており、建仁寺では複製しか見られない。最近のデジタルコピー技術は進歩しており、横浜のデパートでこのコピーを見たときは本物と何ら変わることがないような出来栄えであった。

尾形光琳の風神雷神図屏風は東京国立博物館にあり、これも重要文化財に指定されている。更に、酒井抱一が光琳の絵を模写して描いた風神雷神図屏風もある。これは出光美術館が所有しているとのことである。

本 坊

建仁時の本坊
建仁時の本坊

法 堂

法堂の天井には小泉淳作が描いた畳108畳の大きさの「双龍図」がある。

建仁寺の法堂
建仁寺の法堂

三 門

建仁寺の三門
建仁寺の三門
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京都案内 御朱印

比叡山 延暦寺(歴史上最も影響力のあった寺院)

京都の北東の比叡山にある天台宗の総本山延暦寺は京都にある寺院に中、いや日本全体でも、良くも悪くも歴史上最も有名な寺院である。その歴史上の重みで世界文化遺産にも登録されている。御朱印帳を作るに当たって、権威のある寺院のものが好ましいと考え、延暦寺を参拝することにした。延暦寺の境内は広大で半日程度では回りきれるものではないが、一番重要な根本中堂など東塔地区を見学した。

延暦寺へのアクセス方法

比叡山からの眺め
比叡山からの眺め

延暦寺は京都側と滋賀県側から行くことが出来る。
1.JR京都駅や三条京阪から出ている路線バスを利用するのが手軽である。
2.電車で滋賀県の坂本まで行き、坂本ケーブルで行く方法。根本中堂は滋賀県側にあり、ケーブルを頂上駅から普通に歩いて行ける。
3.八瀬比叡山口から叡山ケーブルとロープウェイに乗り継いで比叡山山頂まで行き、そこから根本中堂まで下る方法。山頂の展望を楽しむならベター。

延暦寺の境内

延暦寺は比叡山全域を境内とする寺院の総称である。比叡山の山中には約150ほどの堂塔が点在している。
延暦寺は地域別に、東塔、西塔、横川の三つに分かれている。

東塔地区

東塔は最澄が延暦寺を開いた場所であり、本堂にあたる根本中堂を中心とする区域である。総本堂根本中堂をはじめ各宗各派の宗祖を祀っている大講堂、先祖回向のお堂である阿弥陀堂など重要な堂宇が集まっている。

根本中堂(国宝)

延暦寺根本中堂
延暦寺根本中堂

延暦寺の中心的な建物で現在の総本堂。元は最澄が建てた一乗止観院であるが、何度が騒乱で焼かれている。現在の建物は織田信長の焼き討ち事件の後、寛永19年(1642年)に徳川家光によって再建されたものである。
入母屋造で中央の厨子には最澄自作と伝えられる薬師如来立像を安置されている。
本尊厨子前に最澄の時代から続く「不滅の法灯」がある。この法灯は信長の焼き討ちのときも、山形県の立石寺に分灯されていたものを移して1200年間灯し続けている。

根本中堂の納経帳と納経印

延暦寺の納経帳
延暦寺の納経帳

納経印には醫王殿と書かれていた。意味は本尊が薬師如来であることから、昔は医者のことを薬師と呼んでいた。即ち、薬師如来は、身の病、心の病を癒してくれる医者の王様であり、この根本中堂はその殿堂との意味があるとのこと。

根本中堂納経印
根本中堂納経印

文殊楼(山門)

延暦寺文殊楼
延暦寺文殊楼

根本中堂の前の階段を登ったところにある。二階には文殊菩薩が安置されている。

大講堂

延暦寺大講堂
延暦寺大講堂

本尊は大日如来。本尊の両脇に日蓮、道元、栄西、円珍、法然、親鸞、良忍、真盛、一遍の像が安置されている。

阿弥陀堂

信徒の先祖回向の道場です。本尊は阿弥陀如来です。

延暦寺阿弥陀堂
延暦寺阿弥陀堂

阿弥陀堂の納経印

延暦寺の各所で納経印が貰える。

延暦寺阿弥陀堂の納経印
延暦寺阿弥陀堂の納経印

法華総持院東塔

多宝塔であるが、通常の多宝塔と異なり、上層部は平面円形ではなく方形である。下層には胎蔵界大日如来、上層には仏舎利と法華経1000部を安置されている。

延暦寺法華総持院東塔
延暦寺法華総持院東塔

西塔地区

西塔は本堂にあたる釈迦堂を中心とする区域。第2世天台座主寂光大師円澄によって開かれた。本堂は釈迦堂(転法輪堂)。伝教大師最澄上人の御廟所である浄土院などがある。また、居士林で一般人も修行体験をすることができる。

横川地区

横川は本堂にあたる横川中堂を中心とする区域。第3世天台座主慈覚大師円仁によって開かれた。

延暦寺の歴史

延暦寺の創建と国家鎮護のお寺

平安時代の初期の延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。創建時の年号をとって延暦寺という寺号が許された。
延暦寺は平安京の鬼門にあたる北東部を守る国家鎮護のお寺として貴族や民衆から高い信頼を受けていた。
この都を守護するとの考え方は江戸にも適用され、寛永寺が建てられている。寛永寺の山号は東叡山であるが、意味はまさしく「東の比叡山」との意味である。

日本仏教の母山

延暦寺は最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。最澄は鎮護国家の為には、真の指導者である菩薩僧を育成しなければならないとして、比叡山に篭もって修学修行に専念する12年間の教育制度を確立した。その内容は天台法華の教えのほか、密教、禅、念仏など仏教の総合大学のようであった。これにより、日本仏教界の著名な僧を多く輩出し、日本仏教の母山と仰がれている。

比叡山で修行した著名な僧としては以下の通りである。
良源:比叡山中興の祖。
源信:「往生要集」の著者
円珍:天台寺門宗の宗祖。
真盛:天台真盛宗の宗祖。
良忍:融通念仏宗の開祖。
一遍:時宗の開祖。
法然:日本の浄土宗の開祖。
栄西:日本の臨済宗の開祖
道元:日本の曹洞宗の開祖
親鸞:浄土真宗の開祖
日蓮:日蓮宗の開祖

比叡山延暦寺の強大化

延暦寺は信頼を受けるとともに武力を持ち始め、宗教と結びついた僧兵により年々その武力を伸ばしている。延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺とともに、南都北嶺と恐れられた。
平安時代の末期、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「京都を流れる鴨川の水害、サイコロの目、強訴を繰り返す比叡山延暦寺の僧兵」の三つが思うとおりにならないと嘆かせている。
室町時代、六代将軍の足利義教が初めて延暦寺を制圧しようとして僧兵と対立している。最終的には姿勢を曲げなかった足利義教に僧侶達が絶望し、根本中堂に火を放って焼身自殺している。その時、本尊や多くの建物が焼失してしまった。その後、義教が焼失した根本中堂の再建を命じている。
義教は一時的に延暦寺の制圧に成功したが、義教が殺されると延暦寺は再び武装し強大化な独立国状態に戻っている。

織田信長による比叡山焼討ち事件

戦国時代、延暦寺は僧兵4000人を持っていた。織田信長はこの強大な武力と権力を持つた僧達の仏教政治の腐敗が戦国統一の障害になると考え、延暦寺に武装解除するよう再三迫った。延暦寺はこれを断固拒否したため、織田信長の軍勢は延暦寺を取り囲み焼き討ちした。これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された。
信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって再建されている。

世界文化遺産に登録

平成6年、古都京都の文化財の一部として、ユネスコ世界文化遺産にも登録された。建物だけを考えると度々焼失し、現存するものは江戸時代に建てられたものであるが、延暦寺の1200年の歴史。国宝的人材育成の学問と修行の道場として評価。世界の平和や平安を祈る寺院として、歴史と伝統が世界に高い評価を受けてのことである。

延暦寺の荒行「千日回峯行」

相応和尚により開創された。その常識を離れた内容のためマスコミで取り上げられることが多い。その内容は以下の通り。
・1年目から3年目までは、1日に30キロ比叡山の山中を巡る行程を毎年100日間行う。
・4年目と5年目は、同じく30キロの行程を毎年200日行う。700日を満了すると。
・「堂入り」:9日間断食・断水・不眠・不臥で過ごす。一般人がこの様なことを行うと4,5日で死んでしまうが、鍛錬すると出来るらしい。
・6年目は、これまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約60キロの行程を100日行う。
・7年目の前半の100日間は行程84キロにも及ぶ「京都大廻り」。比叡山山中の他、赤山禅院から京都市内を巡礼する。
・最後の100日間は、比叡山山中を30キロをめぐり満行となる。

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再建され華麗な金閣寺

金閣寺は京都観光のメインイベントの一つである。天気の良い日の再建された金閣寺は映える。外人観光客も驚きの声を上げ。美しさでは京都観光で一番ではないだろうか。

金閣寺付近の住所

住  所:京都市北区金閣寺町1

電話番号:075-461-0013

金閣寺について

鹿苑寺(通称金閣寺)は臨済宗相国寺派の寺院。藤原公経(西園寺公経)がこの地に1224年に西園寺を建立した。1397年に足利義満が河内国の領地してと交換して、北山殿と言われる別邸を造った。その後、禅寺とされ鹿苑寺と名付けられた。開山は夢窓疎石。古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。

金閣寺の観光では境内の観光ルートが設定されており、それに沿って歩くことになる。

陸舟の松。方丈の北側に足利義満手植えとされる松がある。盆栽の松を大きくしたようであり、帆立船の形に仕立てた姿が素晴らしい。京都三松の一つ。 残りの二つは左京区の宝泉院にある樹齢500年の富士山の形をした五葉松。西京区の善峰寺の遊竜松。

金閣寺の陸舟の松
金閣寺の陸舟の松

観光ルートは池の周りを半周するようになっている。金閣寺の裏側を近くから見られるが、湖面の反射した光や金箔で反射した光が軒下を照らし、独得の美しさを演出する。この光景が見られるのは日が回る午後からか。

金閣寺の裏側
金閣寺の裏側

皿の中に硬貨を入れるとご利益があるのか、試している人がいた。いろいろと考えるものである。

金閣寺の庭
金閣寺の庭

金閣寺の裏山の上に夕佳亭と言われる数奇屋造り茶室がある。夕日に映える金閣が美しい(佳)というところから、この名前が付けられたとのことやはり金閣寺は夕方が良いのかも知れない。南天の床柱と萩の違い棚で有名。

金閣寺の夕佳亭
金閣寺の夕佳亭

観光ルートは周遊するようになっており、このような場所もある。

金閣寺の周遊ルート
金閣寺の周遊ルート

金閣寺の放火事件

金閣寺は昭和25年、寺子弟の見習い僧侶に放火され、全焼している。現在の金閣寺は事件から5年後に再建されたものである。金閣寺は明治時代に大修理されたとき、詳細な図面が作成されていたので、創建当時の姿を、忠実に再現することが出来た。

焼失直前の金閣寺はほとんど金箔の剥げ落ちた簡素な姿であたっが、再建にあたっては焼失直前の姿ではなく創建時の姿を再現するとの方針が採られ、金箔輝く姿で再建された。放火事件により文化財として歴史的な価値は少し衰えたかもしれないが、怪我の功名と言うべきか、再建され新しく二層、三層が奇麗な金箔を貼られた姿は見事の一言に尽きる。創建当時の華麗な姿を見ることができるようになった。

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桂離宮など宮内庁管理の観光施設の見学方法

京都で宮内庁が管理している観光施設には京都御所、仙洞御所、修学院離宮、桂離宮の四つがあるが、見学するには事前の予約が必要であり、少しハードルが高い。

今回、京都に帰郷した際に、急に見学することを思い立ち手続きしたところ、以外にも京都御所、修学院離宮、桂離宮の見学許可が取れたので、その方法を記載する。

インターネット申し込む方法

宮内庁の「参観案内」のページから各施設の空状況を見て予約する方法である。手続き的には簡単で一番楽であるが、その分申込者が多いようで京都御所以外は、殆どの日が既に定員の枠を超えている。

私の場合、1週間程度前であったが、偶然にも、京都御所、桂離宮、修学院離宮とも空いている時間帯があり、申し込めた。但し、これで即当選とはならないで、申し込み者が多いと抽選になる。
京都御所は定員にまだ達していなかったのか、申し込みと同時に許可のメールが来た。
修学院離宮と桂離宮は定員を超えたとのことで、抽選が行われることになり、3日程度後に抽選結果のメールが来た。修学院離宮は当選。桂離宮は落選であった。

往復はがき使用して郵送で申し込む方法

ネットで空き枠がないと既に定員に達したおり、予約できない感覚になるが、郵送の枠はネットとは別に設けられており申し込むことができる。ハガキには第1希望から第3希望まで記入できるのことなので、当選する確率は一番高そうである。

宮内庁京都事務所参観係の窓口で申し組む方法

宮内庁京都事務所参観係が京都御所の近くにあるが、ここの窓口で直接申し込む方法。ここも別枠で管理されているようであり、インターネットで枠に達している場合でも、窓口では予約できる可能性がある。

私の場合は桂離宮は落選したので、見学することは難しいと思っていたが、京都御所を見学する前に京都事務所に立ち寄り、明日空きがないか確認したところ、以外にも簡単に予約することができた。なお、予約する時、身分証明書の提示を求められるので、必ず持参すること。

 見学の内容

見学の20分前に受付開始である。ここで、参観許可通知書と身分証明書がチェックされる。
待合室で10分前頃から紹介ビデオが流される。
どの施設も30人程度の団体見学である。外国人も多い。特に桂離宮は人気があるのか、顔から判断できる外人が10人程度。中国人と思われる人が数名いた。

先頭は説明員、説明員よりは先に進まないでくれとのことである。最後尾には遅れて勝手な行動をしないようにと監視員が付く。見学しているのは1団体だけなので、被写体に人が写ることを避けやすい。最も、のろのろと長く被写体のそばを離れない人もいる。
見学時間は1時間程度。修学院離宮は歩く距離が長いこともあり1時間を越える。
建物はすべて外からの見学である。桂離宮は縁側に座らせてくれた。

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江戸時代初期の皇室の別荘ー桂離宮

桂離宮は江戸時代初期に作られたの回遊式庭園と建築物が現存する皇室関連の別荘で、当時の王朝文化の粋を知ることができる世界遺産クラスの観光資産である。宮内庁が管理しているので、世界遺産に申請はされていないし、一般に見学することはできないが、参観許可を取れば無料で見学することができる。

 桂離宮について

江戸時代の初期に皇族の八条宮の別邸として創設され、建築群と庭園からなる。面積は約7万平方メートルで、うち庭園部分は約5万8千平方メートルを占める。

回遊式庭園には、桂川の水を引いた池を中心に、茶屋、築山、州浜、橋、石灯篭などが配置されている。庭園には茶屋として松琴亭、賞花亭、笑意軒、月波楼の4棟があり、それぞれ異なった場所から庭園を見学できるよぷになっている。また池では舟遊びも楽しむことができように、それぞれの茶屋に船着場が設けられている。庭園は多くの入江と複雑な汀線をもつ池を中心とし、池には大小5つの島がある。池の西岸の平坦地には古書院、中書院、新御殿が北東から南西へ雁行形に並んでいる。この書院群の建物は簡素であるが、造形美に優れており、素晴らしい建物である。

桂離宮の案内図

桂離宮の案内図
桂離宮の案内図

桂離宮の表門

割竹を組んで作られた両開きの門扉を取り付けた簡素な門であるが、特別な場合以外には使用されない。一般参観者はこの門ではなく、南西にある通用門から出入りする。

桂離宮の正門
桂離宮の正門

庭園側から見た表門。遠近感を強調するため道幅にも工夫が施されている。

桂離宮正門からの通路
桂離宮正門からの通路

桂離宮の御幸門

表門を入って真っ直ぐ進んだところに、後水尾上皇の行幸のとき建てられた切妻造茅葺の棟門形式の素朴な門がある。

桂離宮の御幸門
桂離宮の御幸門

桂離宮の外腰掛

庭園を入ってしばらくしたところに、松琴亭で茶会が開催されるときの待合室となる外腰掛がある。

桂離宮の外腰掛
桂離宮の外腰掛

桂離宮の蘇鉄山

外腰掛の前の庭は薩摩島津家から寄進された蘇鉄が植えられている。敢えて、南国の蘇鉄を利用することによって他の庭園と雰囲気を変えている。

桂離宮の蘇鉄山
桂離宮の蘇鉄山

桂離宮の洲浜と天橋立

庭園の部分には浜辺や天橋立に見立てた石橋や島が造営されているところがある。向こうには松琴亭が見える。

桂離宮の洲浜と松琴亭
桂離宮の洲浜と松琴亭

桂離宮の賞花亭

賞花亭は、池の南側にある大きな島の頂上よりやや西に北面して建つ。小規模で素朴な茶屋であり、「峠の茶屋」と呼ばれている。

桂離宮の賞花亭
桂離宮の賞花亭
賞花亭の内部
賞花亭の内部

賞花亭は一番高いところに建っている。昔は木々の背丈が低かったので、遠くの山まで見渡せたとのこと。

賞花亭からの眺め
賞花亭からの眺め

桂離宮の園林堂

園林堂は、池の南側にある大きな島の西端に建つ持仏堂で、離宮内で唯一の本瓦葺の建物である。

桂離宮の園林堂
桂離宮の園林堂

木々も良く手入れされ、美しい。

桂離宮の庭
桂離宮の庭

桂離宮の笑意軒

笑意軒は、池の南岸、離宮敷地の南端近くにある茶屋で、池に面した北側を正面とする。

桂離宮の笑意軒
桂離宮の笑意軒

笑意軒から見た庭の風景。前の池の岸は、直線的な切石で構成した船着場になっている。

桂離宮の庭
桂離宮の庭

桂離宮の中書院と新御殿

新御殿は1662年頃建設された。非常にシンプルではあるが、造形美に優れた建物である。床が高いのは桂川が氾濫したとき浸水を避けるためとのこと。

桂離宮の新御殿と中書院
桂離宮の新御殿と中書院

桂離宮の古書院

古書院、中書院、新御殿はいずれも入母屋造。

桂離宮の古書院と月波楼
桂離宮の古書院と月波楼
桂離宮の月見台
桂離宮の月見台

桂離宮の月波楼

月波楼は、池の西岸、古書院の北側にある茶屋である。

桂離宮の月浪楼
桂離宮の月浪楼

見学会見学会は庭園を一周して終了である。