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御朱印 板東33観音札所

都幾山 慈光寺(じごうじ)

埼玉県にある坂東三十三箇所観音霊場の第9番札所となっている。慈光寺は標高350メートルの都幾山の中腹にある鄙びた寺である。バスは平日は原則的として山の麓のバス停までしか行かないので、参拝するには標高差200メートル程度の山登りとなる。

慈光寺の地図と行き方

住 所:埼玉県比企郡ときがわ町西平386
電 話:0493-67-0040
参拝するのが大変な寺院である。交通は不便で、バスの便も平日は通常は山の麓までしか行かないので、標高200メートルの登山をしなければならない。
山の上にもバス停はあったが土日だけのようである。しかし、デマンドバスを利用すれば山の上まで運行もしてくれるようである。
横浜から交通機関を利用して参拝するとなると一日仕事になるので、正月休みで帰ってきていた息子に自動車を運転させて参拝した。山の上にも2箇所ほど駐車場はあった。

慈光寺の歴史

慈光寺は天台宗の国宝を持つ由緒ある寺院である。山号は都幾山。院号は一乗法華院。本尊は千手観音で、坂東三十三箇所第9番札所となっている。

慈光寺の歴史は飛鳥時代の西暦673年(年号は天武、白雉、白鳳と資料により異なる)に僧慈訓が都幾山に登り観音堂を建て千手観音を安置したことにより観音霊場となったことに始まる。その後、役小角が西蔵坊を設け修験道場を開いた。奈良時代の宝亀元年には鑑真和上の高弟であった道忠がお堂を建て慈光寺を創建した。道忠はその後も関東を中心に布教活動を行っている。
平安時代になると最澄が比叡山に天台宗を開くが、その際、道忠一門が最澄に協力して写経を行い多くの経典を奉納している。清和天皇から天台宗の別院として「一乗法華院」の勅額を賜り、天台宗の中心的な寺院となって行った。慈光寺の全盛期は室町時代で、都幾山に比叡山の延暦寺を思わせるような壮大な多くの寺院が建てられ、多くの修行僧や参拝客を集めた。
戦国時代になると世の中は荒れだし、慈光寺も延暦寺と同様に僧兵を雇い、近隣の武士達と争った。最後は太田道灌等によって焼き討ちにあい、寺院も衰退して行った。
江戸時代になると幕府から寺領百石が授けられ、それなりに栄えた寺院となっていた。

慈光院の建物

開山塔の覆屋

山を登っていて最初に出会う建物である。建物の中に重要文化財に指定されている「慈光寺開山塔」がある。

慈光寺の開山塔の覆屋
慈光寺の開山塔の覆屋

銅鐘

鎌倉時代に作られた武蔵地方では一番古い銅鐘である。これも国の重要文化財に指定されている。
鐘楼は昭和時代に焼失し、平成に再建されたものである。鐘楼の近くから玄関に至る山道が作られている。自動車の場合は玄関近くの駐車場まで行ける。

慈光寺の鐘楼
慈光寺の鐘楼

慈光寺本坊の玄関

駐車場から少しのところにある鄙びた玄関が見える。

本堂

階段の上にあるのが本堂である。納経印はこの本堂の上がり頂くが、先ずは更に上にある観音堂を参拝してからである。
本堂の中は狭く、いろいろな仏様が祀られていた。納経印を書いて頂いている間に参拝を進められた。

慈光寺の本堂
慈光寺の本堂

観音堂

観音堂は本堂から更に山道を30〜40メートル登ったところにある。現在の慈光院ではこの観音堂が一番の高所にある建物のようだ。なお、観音堂の階段下にも駐車場があった。

慈光寺の観音堂
慈光寺の観音堂
慈光寺観音堂の装飾
慈光寺観音堂の装飾

慈光寺の納経印

観音堂を参拝したあと本堂で納経印を書いてもらった。観音堂から本堂に戻るときに国宝のレプリカの巻物が展示してある建物があった。

慈恩寺の納経印
慈恩寺の納経印
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御朱印 板東33観音札所

海光山 慈照院 長谷寺

長谷寺は鎌倉にある寺院で、坂東三十三箇所観音霊場の第四番札所となっている。寺院のなかでも人気のある寺で、いつも観光客で溢れている。大きな十一面観音像、花の豊かな境内、高台から見る江ノ島の海など見どころは多い。

長谷寺の桜
長谷寺の桜

長谷寺の住所

住  所:神奈川県鎌倉市長谷3丁目11−2
電話番号:0467-22-6300
江ノ島電鉄の長谷駅から徒歩5分。鎌倉駅から散策しながら行くのもお薦めである。この辺りは鎌倉大仏もあるので、観光客で賑わっている。

長谷寺について

長谷寺は創建当初は、真言宗の寺院だったが、後に鎌倉の光明寺が大本山の浄土宗に改宗した。昭和になってからは独立し、現在は単立で浄土宗寺院となっている。
山号は海光山。院号は慈照院。本尊は十一面観音で、長谷観音として親しまれている。坂東三十三箇所観音霊場の第四番札所となっている。

西国三十三所巡礼を開いたとされる徳道上人が養老5年(721年)に楠の大木から2体の十一面観音を造り、その1体を大和の長谷寺が本尊し、もう1体を祈請して海に流したところ、その15年後に相模国の三浦半島に流れ着いた。奈良時代の天平8年(736年)にその十一面観音像を鎌倉に安置して、奈良県桜井市の長谷寺の開基でもある徳道上人を藤原房前が招請し、観音像を本尊として開山したのが長谷寺ある。

長谷寺の山門

多くの観光客で賑わっている。

長谷寺の山門
長谷寺の山門

長谷寺の境内

山門を入ると妙智池と放生池の2つの池が広がり、普通の寺院の境内とは雰囲気が異なっている。納経印は山門の横のある納経印受付で参拝前に依頼しておく。
長谷寺の境内は下の方と階段を登った高台に分かれている。

放生池

よく整備され公園のようである。鎌倉の寺は人気のある花を植えているところが多い。

長谷寺の放生池
長谷寺の放生池

大黒堂

池を取り囲むようにいろいろな建物が配置されている。大黒堂には鎌倉江ノ島七福神の一つに数えられている大黒天像が祀られている。

長谷寺の大黒堂
長谷寺の大黒堂

書院

一番奥に写経ができる書院がある。


上の境内には池の側から登ることになる。

地蔵堂

上の境内に登る途中にある。

長谷寺の地蔵堂
長谷寺の地蔵堂

観音堂

階段を登り切ると多くの建物がある。長谷寺の目玉である十一面観音立像が祀られている。高さは9メートル強で木造の観音様では日本一と言われいる大きさである。近くで見ると迫力がある。

長谷寺の観音堂
長谷寺の観音堂

阿弥陀堂

観音堂の右手にある建物で、中には厄除阿弥陀と呼ばれる阿弥陀如来坐像が安置されている。この阿弥陀像も近くから見るとことができる。鎌倉六阿弥陀に数えられている。

長谷寺の阿弥陀堂
長谷寺の阿弥陀堂

経蔵

経蔵とは経典などを保管している場所であるが、長谷寺の経蔵は輪蔵と呼ばれる様式のもので、中心軸に沿って回転させることができる書架があり、この回転式書架を回転させると、経典を読んだのと同じ御利益があると言われている。回転は特別な日だけに限定されていた。

長谷寺の経蔵
長谷寺の経蔵

展望台


鎌倉の寺はどこも花が豊かである。この長谷寺もいろいろな花が観光客を楽しませてくれる。

長谷寺の展望台からの風景
長谷寺の展望台からの風景

納経印

山門近くの納経印受付で参拝前に預けた納経帳を参拝後に受け取る。

長谷寺の納経印
長谷寺の納経印
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御朱印 板東33観音札所

祇園山 安養院 田代寺

神奈川県の鎌倉にあり坂東三十三箇観音霊場の3番札所となっている。安養寺は小さな寺院であるが、見事なツツジが咲く、見処のある寺院である。

安養寺の場所

住  所: 神奈川県鎌倉市大町3丁目1ー22
電話番号:0467-22-0806
鎌倉駅から歩いても10分強程度であり、比較的交通の便はよい。
玄関の左側の道路県道311号に沿いに植えられているのはオオムラサキツツジで、ツツジのシーズンになると県道311号を歩いていても、その美しさが目に留まる。
門前に100円の奉納箱が置いてある。

安養寺について

安養院は鎌倉市にある浄土宗の寺院である。山号は祇園山。寺号は長楽寺。本尊は阿弥陀如来。千手観音を安置しているところから、坂東三十三箇観音霊場の3番札所となっている。
この寺の歴史は複雑であり、長楽寺・善導寺・田代寺という3つの寺院が関係している。
長楽寺は、1225年(嘉禄元年)北条政子が夫の源頼朝を弔うため笹目(鎌倉文学館の辺り)に創建した寺と伝えられる。開山は願行。鎌倉幕府が滅亡したとき、兵火によって焼け、同じく焼失した名越の善導寺と合併して現在の地に安養院として再建された。ちなみに安養寺は北条政子の法名であり、現在も北条政子の供養塔がある。
一方、田代寺は1192年(建久3年)源頼朝の家臣の田代信綱が尊乗を開山として比企ヶ谷に建立した寺院である。後に安養院に統合され、現在の安養院になった。
千手観音は田代寺にあったもので坂東三十三箇観音霊場としてはこの田代寺が元になるのであろう。現在でも田代観音とも言われている。

安養寺の玄関
安養寺の玄関

境内にある十三重の塔。

安養寺の十三重の塔
安養寺の十三重の塔

納経印

安養寺の納経印
安養寺の納経印
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御朱印

笠間稲荷神社

年間350万人の参拝客が訪れ、初詣の参拝者数が茨城県で一番多く、古来から信仰されている大きな神社である。三大稲荷神社の一つと謳っている。正福寺を参拝してから車を駐車場に止めたまま、笠間稲荷の見学に行った。徒歩5分程度の距離である。

笠間稲荷神社の住所

住  所:茨城県笠間市笠間1番地 
電話番号:0296-73-0001

JR水戸線笠間駅より徒歩20分。バスがあり交通の便はよい。笠間市の中心地に位置している。というより、笠間稲荷神社に人が集まることから神社を心中に笠間市が形成されたと考えられる。

笠間稲荷神社について

笠間稲荷神社は名前の通り稲荷系の神社である。祭神は宇迦之御魂命。社伝によれば創建は白雉2年(651年)と古いがその沿革は定かでない。ただ、この地に宇迦之御魂命の信仰があったことは確かである。宇迦之御魂命が農耕の神様であるから地方で信仰されていて当然である。江戸時代になると、寛保3年(1743年)に笠間城主井上正賢により社地社殿が拡張され、延享4年(1747年)牧野貞通が城主となるや祈願所と定められ、境内地・祭器具等が寄進されている。その後、歴代藩主から手厚い保護を受け、発展してきた。
旧社格は村社であるが、現在は神社本庁で別表で管理されている大きな神社である。

三大稲荷神社について

笠間稲荷神社は日本三大稲荷の一つと謳っているが、これは笠間稲荷神社が何かの基準でそのように唱えているだけであり、はっきりと決められたものではない。総本社の伏見稲荷大社は別格としてあとの二つは地方によって異なるようだ。候補に挙げられている神社としては佐賀県鹿島市の祐徳稲荷神社、愛知県豊川市の豊川稲荷、茨城県笠間市の笠間稲荷、宮城県岩沼市の竹駒神社、岡山県岡山市の最上稲荷などがある。

門前町

参拝客が多いため、笠間稲荷神社の周りは門前町が形成されている。

笠間稲荷参道
笠間稲荷参道

正 門

神社としては立派な門構えである。

笠間稲荷正門
笠間稲荷正門

本 殿

本殿も決して大きくはないが、風格のある建物である。

笠間稲荷本殿
笠間稲荷本殿

笠間稲荷の御朱印

御朱印は笠間稲荷がメインに記述されたものと、大黒天がメインに記述されたものが選択可能である。神社の御朱印は単に神社名を書いたものが多いため、ここでは変化を求めて大黒天にした。

笠間稲荷本殿
笠間稲荷本殿
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京都案内 御朱印

比叡山 延暦寺(歴史上最も影響力のあった寺院)

京都の北東の比叡山にある天台宗の総本山延暦寺は京都にある寺院に中、いや日本全体でも、良くも悪くも歴史上最も有名な寺院である。その歴史上の重みで世界文化遺産にも登録されている。御朱印帳を作るに当たって、権威のある寺院のものが好ましいと考え、延暦寺を参拝することにした。延暦寺の境内は広大で半日程度では回りきれるものではないが、一番重要な根本中堂など東塔地区を見学した。

延暦寺へのアクセス方法

比叡山からの眺め
比叡山からの眺め

延暦寺は京都側と滋賀県側から行くことが出来る。
1.JR京都駅や三条京阪から出ている路線バスを利用するのが手軽である。
2.電車で滋賀県の坂本まで行き、坂本ケーブルで行く方法。根本中堂は滋賀県側にあり、ケーブルを頂上駅から普通に歩いて行ける。
3.八瀬比叡山口から叡山ケーブルとロープウェイに乗り継いで比叡山山頂まで行き、そこから根本中堂まで下る方法。山頂の展望を楽しむならベター。

延暦寺の境内

延暦寺は比叡山全域を境内とする寺院の総称である。比叡山の山中には約150ほどの堂塔が点在している。
延暦寺は地域別に、東塔、西塔、横川の三つに分かれている。

東塔地区

東塔は最澄が延暦寺を開いた場所であり、本堂にあたる根本中堂を中心とする区域である。総本堂根本中堂をはじめ各宗各派の宗祖を祀っている大講堂、先祖回向のお堂である阿弥陀堂など重要な堂宇が集まっている。

根本中堂(国宝)

延暦寺根本中堂
延暦寺根本中堂

延暦寺の中心的な建物で現在の総本堂。元は最澄が建てた一乗止観院であるが、何度が騒乱で焼かれている。現在の建物は織田信長の焼き討ち事件の後、寛永19年(1642年)に徳川家光によって再建されたものである。
入母屋造で中央の厨子には最澄自作と伝えられる薬師如来立像を安置されている。
本尊厨子前に最澄の時代から続く「不滅の法灯」がある。この法灯は信長の焼き討ちのときも、山形県の立石寺に分灯されていたものを移して1200年間灯し続けている。

根本中堂の納経帳と納経印

延暦寺の納経帳
延暦寺の納経帳

納経印には醫王殿と書かれていた。意味は本尊が薬師如来であることから、昔は医者のことを薬師と呼んでいた。即ち、薬師如来は、身の病、心の病を癒してくれる医者の王様であり、この根本中堂はその殿堂との意味があるとのこと。

根本中堂納経印
根本中堂納経印

文殊楼(山門)

延暦寺文殊楼
延暦寺文殊楼

根本中堂の前の階段を登ったところにある。二階には文殊菩薩が安置されている。

大講堂

延暦寺大講堂
延暦寺大講堂

本尊は大日如来。本尊の両脇に日蓮、道元、栄西、円珍、法然、親鸞、良忍、真盛、一遍の像が安置されている。

阿弥陀堂

信徒の先祖回向の道場です。本尊は阿弥陀如来です。

延暦寺阿弥陀堂
延暦寺阿弥陀堂

阿弥陀堂の納経印

延暦寺の各所で納経印が貰える。

延暦寺阿弥陀堂の納経印
延暦寺阿弥陀堂の納経印

法華総持院東塔

多宝塔であるが、通常の多宝塔と異なり、上層部は平面円形ではなく方形である。下層には胎蔵界大日如来、上層には仏舎利と法華経1000部を安置されている。

延暦寺法華総持院東塔
延暦寺法華総持院東塔

西塔地区

西塔は本堂にあたる釈迦堂を中心とする区域。第2世天台座主寂光大師円澄によって開かれた。本堂は釈迦堂(転法輪堂)。伝教大師最澄上人の御廟所である浄土院などがある。また、居士林で一般人も修行体験をすることができる。

横川地区

横川は本堂にあたる横川中堂を中心とする区域。第3世天台座主慈覚大師円仁によって開かれた。

延暦寺の歴史

延暦寺の創建と国家鎮護のお寺

平安時代の初期の延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。創建時の年号をとって延暦寺という寺号が許された。
延暦寺は平安京の鬼門にあたる北東部を守る国家鎮護のお寺として貴族や民衆から高い信頼を受けていた。
この都を守護するとの考え方は江戸にも適用され、寛永寺が建てられている。寛永寺の山号は東叡山であるが、意味はまさしく「東の比叡山」との意味である。

日本仏教の母山

延暦寺は最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。最澄は鎮護国家の為には、真の指導者である菩薩僧を育成しなければならないとして、比叡山に篭もって修学修行に専念する12年間の教育制度を確立した。その内容は天台法華の教えのほか、密教、禅、念仏など仏教の総合大学のようであった。これにより、日本仏教界の著名な僧を多く輩出し、日本仏教の母山と仰がれている。

比叡山で修行した著名な僧としては以下の通りである。
良源:比叡山中興の祖。
源信:「往生要集」の著者
円珍:天台寺門宗の宗祖。
真盛:天台真盛宗の宗祖。
良忍:融通念仏宗の開祖。
一遍:時宗の開祖。
法然:日本の浄土宗の開祖。
栄西:日本の臨済宗の開祖
道元:日本の曹洞宗の開祖
親鸞:浄土真宗の開祖
日蓮:日蓮宗の開祖

比叡山延暦寺の強大化

延暦寺は信頼を受けるとともに武力を持ち始め、宗教と結びついた僧兵により年々その武力を伸ばしている。延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺とともに、南都北嶺と恐れられた。
平安時代の末期、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「京都を流れる鴨川の水害、サイコロの目、強訴を繰り返す比叡山延暦寺の僧兵」の三つが思うとおりにならないと嘆かせている。
室町時代、六代将軍の足利義教が初めて延暦寺を制圧しようとして僧兵と対立している。最終的には姿勢を曲げなかった足利義教に僧侶達が絶望し、根本中堂に火を放って焼身自殺している。その時、本尊や多くの建物が焼失してしまった。その後、義教が焼失した根本中堂の再建を命じている。
義教は一時的に延暦寺の制圧に成功したが、義教が殺されると延暦寺は再び武装し強大化な独立国状態に戻っている。

織田信長による比叡山焼討ち事件

戦国時代、延暦寺は僧兵4000人を持っていた。織田信長はこの強大な武力と権力を持つた僧達の仏教政治の腐敗が戦国統一の障害になると考え、延暦寺に武装解除するよう再三迫った。延暦寺はこれを断固拒否したため、織田信長の軍勢は延暦寺を取り囲み焼き討ちした。これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された。
信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって再建されている。

世界文化遺産に登録

平成6年、古都京都の文化財の一部として、ユネスコ世界文化遺産にも登録された。建物だけを考えると度々焼失し、現存するものは江戸時代に建てられたものであるが、延暦寺の1200年の歴史。国宝的人材育成の学問と修行の道場として評価。世界の平和や平安を祈る寺院として、歴史と伝統が世界に高い評価を受けてのことである。

延暦寺の荒行「千日回峯行」

相応和尚により開創された。その常識を離れた内容のためマスコミで取り上げられることが多い。その内容は以下の通り。
・1年目から3年目までは、1日に30キロ比叡山の山中を巡る行程を毎年100日間行う。
・4年目と5年目は、同じく30キロの行程を毎年200日行う。700日を満了すると。
・「堂入り」:9日間断食・断水・不眠・不臥で過ごす。一般人がこの様なことを行うと4,5日で死んでしまうが、鍛錬すると出来るらしい。
・6年目は、これまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約60キロの行程を100日行う。
・7年目の前半の100日間は行程84キロにも及ぶ「京都大廻り」。比叡山山中の他、赤山禅院から京都市内を巡礼する。
・最後の100日間は、比叡山山中を30キロをめぐり満行となる。

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御朱印 板東33観音札所

金龍山 浅草寺(せんそうじ)

浅草寺は東京にある唯一の坂東三十三箇所観音霊場であるが、観光客に人気のあり、納経印を書いて頂くのも行列ができている。観光客を見物に行くのも面白い。

浅草寺の場所

住  所: 〒111-0032 東京都台東区浅草2丁目3ー1
電話番号:03-3842-0181

浅草寺について

浅草寺は東京都内で最古の寺である。当初は天台宗の寺院であったが、第二次世界大戦後は独立し、聖観音宗の総本山となつている。山号は金龍山。本尊は聖観音菩薩である。観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」として親しまれている。

浅草寺の歴史は古く飛鳥時代の推古天皇36年(628年)、宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていた漁師の網に仏像がかかった。これが本尊の聖観音像である。漁師の主人は出家し、自宅を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりとされている。
浅草寺が発展したのは徳川家康が入府し、浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えてからである。

境内

建物の大半は太平洋戦争のとき焼失してしまっており、戦後建てられたものであり、歴史的な価値はない。

雷門

表参道入口の門。右に風神像、左に雷神像が安置されている。正式には「風雷神門」であるが、普通には「雷門」と呼ばれている。

浅草寺の雷門
浅草寺の雷門

仲見世

雷門から宝蔵門に至る表参道の両側にはみやげ物、菓子などを売る商店が立ち並び、独特の雰囲気を醸し出している。外人客が多いが、その殆どはこの仲見世の雰囲気を楽しみきているものと思われる。

仲見世の賑わい
仲見世の賑わい

宝蔵門

雷門をくぐり、「仲見世」の商店街を抜けた先にある。入母屋造の二重門である。現在の門は昭和39年に再建された鉄筋コンクリート造で、門の左右に金剛力士(仁王)像を安置されている。昭和の再建後は門の上層が文化財の収蔵庫となっているこことから宝蔵門と呼ばれている。

浅草寺の宝蔵門
浅草寺の宝蔵門

本堂

昭和20年の東京大空襲で焼失した。現在の堂は昭和33年に再建されたもので鉄筋コンクリート造である。

浅草寺の本堂
浅草寺の本堂

五重塔

これも東京大空襲で焼失した。現在の塔は本堂の西側、寛永8年(1631年)に焼失した三重塔の跡地付近に場所を移して、昭和48年に再建されたもので鉄筋コンクリート造、アルミ合金瓦葺き、基壇の高さ約5メートル、塔自体の高さは約48メートルである。

浅草寺の五重塔
浅草寺の五重塔

納経印

納経印は影向堂で扱っている。坂東三十三箇所観音霊場の納経印以外にも各種の御朱印を書いて頂けるので、要望を出すことになる。

浅草寺の影向堂
浅草寺の影向堂


人気のある寺院であり、御朱印をもらう場所にも20名程度の行列が出来ていた。

浅草寺御朱印受付の行列
浅草寺御朱印受付の行列

数種類の納経印を扱っているが、坂東三十三箇所観音霊場の場合は専用の納経帳があるので、特別に希望を聞かれることはなく、奥に座っていたいた人が書いてくれた。

浅草寺の納経印
浅草寺の納経印
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御朱印 板東33観音札所

妙法山 星谷寺(しょうこくじ)

座間市にある星谷寺は境内が現在的に整備されたすつきりした寺院である。如何にも都会的である。

星谷寺の住所

住  所:神奈川県座間市入谷3-3583-1
電話番号:046-251-2266
小田急線の座間駅から徒歩5分と非常に便利なところにあるが、 坂東三十三箇所観音霊場めぐりは歩くのが基本との思いがあったので、厚木の長谷寺から歩いた。最短距離で歩くとなると畑の中を通るなどかなり難解である。このため、携帯の地図ソフトのナビ機能を活用した。距離としては十数キロあっただろう。

途中に中津川と相模川を渡る。

中津川の辺りの風景
中津川の辺りの風景

星谷寺について

星谷寺は真言宗大覚寺派の寺院。山号は妙法山。院号は持宝院。本尊は聖観音で坂東三十三箇所観音霊場の第8番札所となっている。夜でも昼のように明るいことから「星谷(ほしのや)」と呼ばれていたことから星の谷観音とも呼ばれている。

星谷寺は当初、現在の座間谷戸山公園の地に観音堂の別当寺として、天平年間(729年~49年)に観音堂とともに行基によって創建されたと伝えられる。

観音堂が鎌倉時代に焼失したため、観音様が自ら選んだとされる現在の地に移され、再建された。その後は歴代の北条氏から篤い保護を受けた。また、江戸時代には徳川家康から寺領の寄進をうけ、大寺院となった。その後も大山講の影響や観音巡礼などの大いに賑わったようである。

境内に入るとモダンな佇まいの仁王像が迎えてくれる。

梵鐘(重要文化財)

仁王門から境内に入って右手にある銅鐘は東日本で二番目に古い鐘ということで重要文化財に指定されている。

星谷寺は樹木の多い寺である。境内の真ん中に大きなイチョウの木がある。

星谷寺のいちう
星谷寺のいちう

納経印

星谷寺の納経印
星谷寺の納経印
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御朱印 板東33観音札所

日光山 中禅寺(中禅寺湖畔の景色よい寺院) 

中禅寺は日光の海抜1269メートルの中禅寺湖畔にある天台宗の寺院で坂東三十三観音霊場の第18番の札所になっている。現在は世界遺産に登録された日光山輪王寺の別院との位置付けである。日光の観光地の中心地の場所であり、中禅寺を訪れる人は多い。

中禅寺の住所

住  所:栃木県日光市中宮祠2482
電話番号:0288-55-0013
いろは坂を登り中禅寺湖の湖畔を左に曲がり数分のところで前に大きな駐車場がある。中禅寺はその駐車場の前である。中禅寺の境内に入るのは有料であり、納経印をもらうにも入場料を支払わなければならない。観光地は有料なところが多い。

中禅寺について

天台宗の門跡寺院輪王寺の別院。山号は日光山、本尊は立木観音として親しまれている十一面千手観音菩薩である。
歴史的には日光は山岳信仰の神仏混合の霊場として開かれた。延暦3年(784年)日光を開いたとされる勝道上人が弟子達とともに中禅寺湖を周遊されたとき湖上に千手観音の姿を見て、それを心に焼き付け、その姿を立木のままの桂の木に千手観音像を刻んだと伝えられている。これが本尊の十一面千手観世音菩薩であり、中禅寺の始まりである。(当時は神宮寺と言われていた。)
しかし、明治5年(1872年) 神仏分離により中禅寺は輪王寺の別院との位置付けになっている。

本堂(立木観音堂)

本尊の千手観音(十一面千手観音)が安置されている本堂。堂内の観光は時間毎に係員が案内してくれる。千手観音は像高約6メートルの立派な仏像である。周りには源頼朝が奥羽征討の時に寄進したとされる四天王像が祀られている。仏像群は素晴らしく、有料であることも頷ける。

中禅寺の立木観音堂
中禅寺の立木観音堂

五大堂

観音堂から堂内の見学ルートが作られている。少し高台になったところに五大堂があり、不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王の五大明王が安置され、祈祷の道場となっている。五大堂は見晴らしがよく、中禅寺湖の風景は素晴らしい。

愛染堂

本堂の前に愛染明王像を安置する愛染堂がある。映画『愛染かつら』のロケ地として有名である。縁結びにご利益があるとして信仰を集めている。

中禅寺の愛染堂
中禅寺の愛染堂

鐘楼

参拝者に公開されており、中に入り自由に梵鐘を突ける。但し、管理している人はいないが有料であり、自主的に寄付することになっている。

中禅寺の鐘楼
中禅寺の鐘楼


鐘楼内部は狭い階段で上に登れる。狭い室内に諸願成就の梵鐘がある。内部で鐘の音を聞くとかなり反響し、外で聞く音とは雰囲気が異なる。

中禅寺の鐘楼内部の鐘
中禅寺の鐘楼内部の鐘

納経印

境内真ん中ほどに納経印を書いて頂ける場所が設けられている。

中禅寺の納経印
中禅寺の納経印

華厳の滝

いろは坂から中禅寺とは反対側に回り、中禅寺湖の湖畔から少し入ったところに華厳の滝のビューポイントがある。ビューポイントは幾つかある。

華厳の滝
華厳の滝
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御朱印 板東33観音札所

八溝山 日輪寺(坂東三十三観音霊場最難関の札所)

日輪寺は茨城県の最北端八溝山の山頂近くにあり、坂東三十三観音霊場の中で巡礼するのが一番難しいと思われている寺院である。「八溝知らずの偽坂東」といわれるように、昔から登らずに遥拝 だけで済ましてしまう者がいたほどである。

日輪寺の住所

住  所:茨城県久慈郡大子町上野宮2134 八溝山8合目
電話番号:0295-77-0552

交通の便

JR水郡線常陸大子駅から茨城交通バス、蛇穴行きのバスに乗り、終点の「蛇穴」下車。そこから徒歩2時間の行程である。

バス道路となっている28号は比較的平坦な道である。日輪寺へ行くには28号から248号へ曲がる。この分岐点の標高は325メートル。日輪寺の標高は約820メートルであり、バスの終点からは約500メートルの標高を歩いて登らなければならない。帰りも適当なバスの便があればよいが、本数が少なく、便がなければ、歩いて戻らなければならない。高齢者の私が歩いて行ける場所でないと思い、息子を誘いドライブした。

248号の勾配はきついが、道路はよく整備されており、対向車が来ても普通に運転できる程度である。このためか自動車だけでなく自転車で登っている人や集団も見かける。自転車の強者のトレーニングコースになっているのかもれない。

日輪寺について

日輪寺は天台宗の寺院で山号は八溝山。本尊は十一面観音で、坂東三十三観音霊場第21番札所となっている。
日輪寺の創建については詳細は不詳であるが、673年に役行者が開いたとされている。多分、山岳信仰の関連で、山頂近くに開いたのであろう。天台宗の総本山である延暦寺も比叡山の標高800メートルの場所にあり、共通するもがある。

日輪寺の本堂

日輪寺の本堂
日輪寺の本堂

本堂の横に古い観音堂がある。

日輪寺の観音堂
日輪寺の観音堂

納経印

本堂は広い座敷となっており、本尊を参拝したあと、納経印は住職に机で話しながら書いて頂けた。今日は天気がよいので楽であるが、天候が悪いと大変なようである。

日輪寺の納経印
日輪寺の納経印

八溝山山頂までハイキング

8合目まできたので、折角だから八溝山の山頂まで登ることにした。山頂までもドライブできるが、駐車場が空いているか不明であったので、車を日輪寺に駐車させたまま、八溝山山頂まで標高差200メートルをハイキングした。観音堂の横に登山道があった。直ぐ車道にでたが、登山道まま頂上まで登った。

八溝山も山岳信仰の霊地であり、頂上にある八溝嶺神社が祀られている。

八溝山の八溝嶺神社
八溝山の八溝嶺神社

山頂は視界が開けていないので、城のような展望台が建っている。

八溝山の展望台
八溝山の展望台

八溝山は茨城・福島・栃木の三県にまたがる八溝山脈の主峰であり、標高は1020メートル。展望台からは遠くまで見渡せる。

八溝山からの展望
八溝山からの展望

帰りは248号で28号まで下り、蛇穴の先の28号を登り321号から帰った。途中、道が狭いところもあるが、問題なくドライブできた。

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妙福山 佐竹寺(県道の側にある古い寺院)

坂東三十三観音霊場の22番札所となっている佐竹寺は茨城県常陸太田市の郊外にある、茅葺屋根の本堂が印象に残る古い寺院である。本尊は十一面観音。

佐竹寺の住所

住  所:茨城県常陸太田市天神林町2404
電話番号:0294-72-2078
佐竹寺は常陸太田市の郊外の県道61号線の横、JR常陸太田駅から徒歩約30分の距離にある。
霊場の多くは山の中腹など高いところにあり、御参りするには多少は階段を登らなければならないことが多いが、この佐竹寺は車を降りて直ぐ、あまりにも手軽に行けるので、少し有難みが薄れる感じである。

佐竹寺について

佐竹寺は真言宗豊山派の寺で、山号は妙福山、院号は明音院。本尊は聖徳太子が彫ったといわれる十一面観音。坂東三十三観音霊場の二十二番札所となっている。
花山法王が板東巡礼中に随行の元蜜上人に聖徳太子作の十一面観音像を与えて寛平7年(895年)に建立させたと伝えられている。当時は観音寺という名前であった。
その後、佐竹氏代々の祈願所として発展し鎌倉時代から安土桃山時代までは隆盛を極めたが、関ヶ原の合戦で佐竹氏が敗れると、佐竹氏は秋田に国替となり、後ろ盾を失った佐竹寺も衰退していった。しかし江戸時代は坂東三十三観音霊場となっていたので。ある程度賑わっていたが、明治維新の廃仏毀釈で衰退が決定的となり、永らく人の住まない寺として放置されていていた。昭和24年からは住職が住み出し管理されている。現在は御朱印ブームも影響してか坂東三十三観音霊場となっているので参拝する人は多い。

佐竹寺の建物

本堂(重要文化財)

本堂は現在の北西稲村神社の北の洞崎の峰にあったが、焼失し、天文15年(1546年)にこの地に再建されたものである。茅葺屋根の本堂は歴史を感じさせる。また、鬼門よけのため,北に向かって建てられているので北向観音と呼ばれるている。1906年に国の重要文化財に指定されている。

佐竹寺の本堂
佐竹寺の本堂

千社札

本堂の板塀には参拝した印として千社札が数多く貼られていた。歴史のある寺院は数多く貼られていることが多いが、この佐竹寺も例外に漏れず数多く貼ってあった。

佐竹寺に貼られていた千社札
佐竹寺に貼られていた千社札

山門(仁王門)

昭和15年(1940年)に再建されたたてものである。門の両側には宝永年間に制作された金剛力士(仁王)像が安置されているとのことであっが、行ったときは修復中で見られなかった。

佐竹寺の納経印
佐竹寺の納経印

納経印

納経印は寺院の境内の横に建っている寺務所で書いて頂ける。残念ながら字は迫力に欠けた。

佐竹寺の納経印
佐竹寺の納経印